戦火のペルシャ湾にて

(1998年7月2日、全日本海員組合主催のシンポジウム「海から見る「新ガイドライン」」にパネラーとして出席時の草稿)

 外航船一等航海士をしております、増島です。 今回はイランイラク戦争下のペルシャ湾就航体験をお話したいと思います。 イランイラク戦争はご存じのように、1980年9月より始まりました。開戦当時は、陸上のみの戦闘で、かつ私自身は鉱石専用船に乗って、インドやオーストラリアばかり行っていましたので、イ・イ戦争は当初対岸の火事くらいに思っておりました。

 ところが1986年7月にタンカーへ乗船してから、1988年8月にイランイラク戦争が停戦になった後まで、私は続けて3隻のペルシャ湾行きのタンカーに乗りました。「乗りました」というより心情的には「乗せられました」と言う方が正しいかもしれません。

 その頃ペルシャ湾入りますと、まあ各国の艦船に出会いましたね。アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、・・・。

 1986年の頃はまだそれ程、船舶への無差別攻撃はなかったと記憶してはおります

が、それでも浮遊機雷さわぎは相当ありました。当時わたしは二等航海士だったのですが、毎日正午前に、当直のためにブリッジに上がって、その日出された航行警報をチェックし、浮遊機雷の情報が入ると海図に記入するのが日課になっておりました。航行警報は英文のものが多い関係で「MINE」という英単語、これが機雷という意味なのですが、この時初めて覚えましたね。この「MINE」、私の物という意味とスペルもいっしょなのです。ペルシャ湾中央部から北の海域の海図には相当数の機雷のマークが入れられておりました。海域によってはそのマークの数が多過ぎて、真っ黒になっていた所もあったくらいです。

 ある時、サウジアラビアのラスタヌラという港の沖にある錨地に本船が錨を降ろして積み荷待ちをしていた時のことです。ブリッジで仕事をしていた私は、何気なく前方を見ていた所、まるくとげのある直径2・3mの物体が文字通りぷかぷか浮いて流れているのを発見しました。すぐにキャプテンに報告し、何人かでその物体を注視していました。機雷のようだが、本当にそうなのだろうか。とにかく乗組員で実際に機雷を見た者はいなく判断がつきにくい状況でした。そのうちその物体はぷかぷかと流れ去ってしまいました。本船は何事もなく、その後何日かして錨を上げ積み荷のために、バース(岸壁)に着岸しました。その直後でした。航行警報に「ドイツ籍タンカー、ラスタヌラ沖錨地にて触雷、船首バラストタンクに損害発生」と出たのは。私達は顔を見合わせました。やはりあの物体は機雷だったのだと。触雷したドイツ船は本船の5マイル位南に錨を降ろしていた船です。この時は皆で胸をなでおろしました。

  またこんなこともありました。バラスト航海(往航)時、夜間ホルムズ海峡を無事通過し、一番船舶攻撃の多い海域もクリアーし、キャプテンも自室に帰った午前3時位のことです。クォーターマスター(操舵手)と二人、暗間の海を見つめていた時、左舷真横6マイル位のところで、ぼっと火の手が上がりました。思わず二人で顔を見合わせましたが、その火もすぐに消えたので、油田の煙突の火でも急に大きくなったのだろうと思っていました。ところが、その日の午後の航行警報に「日本籍タンカー、○○○、国籍不明のガンボートより攻撃される。死傷者なし」と出ていたのです。その位置が、今朝の火の手の上がった位置でした。

ついに日本船にも、被害が出てきたか、そんな思いでペルシャ湾内を航行したものです。

1987年に入り、複数の日本籍船が攻撃されるようになりました。ブリッジの当直者は一番危険だということで、非常に分厚くて重い防弾ヘルメットと防弾コートを会社も支給してくれました。自室で寝る時は皆、枕の横に救命胴衣、タオル、ヘルメット、トーチランプなどを置いて、万一の事態に備えたものでした。また自室がサイドにあり、そちら側がイランに向いている乗組員は、自室で寝ず、レクレーションルーム等で寝ておりました。

 とにかく航行警報では、毎日のようにどこかしらの国の船舶が攻撃を受け、ある船は炎上沈没、ある船は死傷者発生というニュースがかなりあったと記憶しております。アラブ首長国連邦ドバイの沖には、攻撃を受け真っ黒く焼けごげた、ドックで修理を待つ船が多数錨を降ろしています。行きに帰りにそのわきを通るのですが、気持ちの良いものではありませんでした。

 その何航海か後のことです。その頃、ホルムズ海峡周辺の最危険区域は夜間航行するので、無差別攻撃に遭う、日本船はこの戦争には全くの中立なのだから船体横に大きく「日の丸」をペイントし、当日入・出湾の日本船は船団を組んで昼間航行すべしということになりました。日本船は互いに連絡を取り合い、会合地点に終結し、固まって危険海域を航行しました。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というへんな標語とまさしく一緒の論理です。

 そんな危険海域昼間航行のある往航のことでした。

 ちょうど正午間際、昼食を済ませ、ブリッジへ上がろうとした時です。三等航海士のA君が船内放送で「本船右舷後方3マイルのギリシャ籍タンカーがイランのミサイルボートの攻撃を受け炎上しました」との放送をしました。船長も私も急いでブリッジに行きました。右舷後方を見ますと、すぐ後ろの同航船が、ミサイルを次々打ち込まれブリッジ右舷側が炎上しております。

ギリシャタンカーはさかんに「メイデイコール、メイデイコール、ヘルプミイ、ヘルプミイ、ウイ リクアイヤー アシスタンス!」(「メイデイ」とは、国際無線通信規則で遭難時、必ず、

この言葉を前置してから、無線電話で遭難通報を発信することとなっている)を繰り返しております。しかしながら本船もどうすることも出来ません。とにかく現場から少しでも離れようと、全速力プラスαで逃げるしか手だてはありません。整然と隊列を作って昼間航行していた日本船もちりじりになって行きました。3マイルという距離は、大型タンカーにとっては、普通車で通常の道路で4・5m後ろを走っている車と同じ感覚です。3マイル=約6Kmですがすぐ後ろに見えるのです。

 時間にして5〜10分位、ミサイルボートはギリシャ船を攻撃していたでしょうか。その後、スルリと本船に向かって来たのです。本船船長は直ちに、エンジンコントロールルームに機関長、一等機関士を残し、全乗組員をブリッジ左舷に集めさせました。今後どうなるかわからないが、皆がこの現場を把握できるようにとの配慮だったかもしれません。総勢5・6隻のミサイルボートは本船至近でその砲口を、本船に向け威嚇し始めました。私を含め皆「これはやられる!」と思いました。しばらくその状態が続いたと思います。そのうち1隻のボートがくるっと向きを変えたかと思うと、他のボートも向きを変え暴走族がするように、蛇行運転をしながらイラン沿岸へ消えていきました。

 この間の時間、実際の時間はせいぜい10分くらいでしょうか。その時間がどれだけ長かったことか。本当にヒヤリとした体験でした。

 イランの艦船に砲口を突きつけられ、誰何(国際VHF電話(無線電話)で本船を呼ばれ、目的地等を聞かれること)を受けたことは数えきれませんでした。

 私はこれらの体験を通しいろいろなことを考えさせられました。 イラン・ミサイルボートの革命防衛隊というのは一種の大統領直属の親衛隊です。その親衛隊がまるで野山でうさぎや鹿を追う狩人のごとく、無差別に直接的には全く関係のない私たちを攻撃するのです。2国間の争いである戦争に第3国まで巻き込んでいるのです。これはかなり狂っているとしか言いようがありません。しかし平時の道徳が通らないのが戦争なのですね。

 また、この時期アメリカやイギリスのタンカーは多数の自国艦船に護衛され、ペルシャ湾内を航行しておりました。これらの船団の周りには、さすがにイランの艦船も姿をあらわしません。私たち日本船も守ってほしいと思ったこともたびたびありました。しかしこうやって「目には目を、歯には歯を、武器には武器を」で根本的な問題は解決されるのでしょうか。否です。インドとパキスタンの核実験競争を見ても明らかです。「武器には武器」で行き着く先は、互いの消耗と滅亡です。

 イラン・イラク戦争が起こる以前にイランの原油積出港に行った時のことを覚えていますが、石油で潤う豊かな国と人々という印象が強くありました。ところが、この戦争が終わった後の同じ港に行ってびっくりしました。港湾関係者が皆、船へ物をたかりに来るのです。コレラの予防接種が可能ということでしたので、申し込むと、実は注射針が少ないので、本船備え付けのものを使わせてくれ、また予備があれば少し分けてほしいとイラン人のドクターから言われた時は全く悲しくなりました。国際紛争を武力で解決しようとすれば、そこに残るのは膨大な富の喪失と悲惨な現実だけです。

 昨年9月(1997年)に日米政府間で合意された新たな日米防衛協力指針(いわゆる「新ガイトライン」)は日米安保条約を踏み出し、新たな軍事協力体制を作るものとして危険視されています。これをもとに今年4月(1998年)に国会に提出された周辺事態措置法案では民間港湾・空港の提供や輸送等の多くの問題点が指摘されているところです。「米軍の後方支援を行う」との事なので、私たちの乗る船舶もかり出されるのではないかと心配しております。海には正確に言えば、前方も後方もありません。当然私たち船員も戦火に見舞われることとなるでしょう。海は広く、日本経済を支える海上交通路も長く広範囲で、その密度もかつての戦前の比ではありません。その海を軍事力で守っていくことはできないと思うし、また海を戦場にしてはならないという思いが強くあります。

 私は平和至上主義を唱えるつもりはありませんが、「武器には武器を」の論理で行き着く先はやはり消耗と滅亡しかないのではないかとしみじみ思うこの頃です。

(終)

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