私たちの心のうちに輝き続ける聖霊

パドアのアントニオ 増島 忠弘

父なる神と、子なるイエス、そして聖霊・・・。この聖霊というものが、長い間わたしにはよくわかりませんでした。学生時代、神父さんに「聖霊って、何なんですか。三位一体って、何なんですか」と聞いた記憶があります。その時の説明は確かこのようなものでした「万物を創られた神様がいるのは、分かるよね。その神様が、この世に自分の似姿としてイエスをお遣わしになった。(ここまではわかる)聖霊はイエスを通して神から私たちに与えられる、息吹のようなものだよ。父と子と聖霊は3つで1つなんだ。」わかったような、わからないような・・・。「ま、いいか。聖霊の存在は信じている。聖霊のことがよくわからないということを私はわかってるのだ。説明が難しいのが聖霊なんだ」と。

ずーとこのような状態で、過ごして来ました。漠然としてはいるが、聖霊とは、とにかく説明が難しい存在なのだと思っていました。そして最近ある勉強会で、聖霊について説明を受ける機会がありました。そこでいろいろと聖霊の話を聞かされ、今まで漠然としていた聖霊への思いが、「目からウロコが落ちたように」わかるようになりました。

ヨハネ福音書20章には中盤には、復活したイエスが、戸を閉めていた部屋の中の弟子たちに現れるくだりがあります。ここでイエスは「平安があなたがたにあるように」さらに、彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われる。「心の平安と聖霊」、これらは復活後のイエスの大切な言葉だと思います。息を吹きかけるというくらいだから、風のようなものなのかなと思ってしまいがちです。これではまた逆戻りです。聖霊を受けると書かれているので、やはり聖霊は私たちの中に、入られるものなのだと理解できます。

この聖霊は、私たちの心のなかに宿る「善の別人格」と言えることができないでしょうか。私たちは洗礼時に聖霊を受けます。ある神父さんが聖霊降臨の主日に言われました。「皆さん、聖霊に気づいて下さい。洗礼を受けた時、あなた方に聖霊の火がともされたのです。この火は絶対消えない火です。この火を隠さないように、祈りましょう。」

 私たちはともすると、聖霊に気づかず、せっかく灯っているその火を、隠してしまいがちです。聖霊に気づき、その覆いを取り払いましょう。心を開放して、父なる神とそばにいつもいてくれるその御子イエス、そして私たちのうちに輝く聖霊に祈れば、心は平安になり、悪魔の誘惑からも遠ざかれると信じられるようになりました。

悪魔の誘惑、すなわち邪悪なこころや神への疑いに陥り、出会った時、ともすると私たちは、自身の心を閉ざし「サタンよさがれ!」と祈ることが多いのではないでしょうか。これも確かに必要な祈りなのでしょうが、これではまず自分自身の心にバリアーを張り、他のものを(良いものまでも)受け付けなくなりかねません。

最近このような艱難に会った時、私は心を全て開放し「サタンよ、どこにいますか?いたら返事をして下さい」と祈ることにしています。心を開放し、すべてを神にゆだねて祈れば、聖霊の輝きはまばゆいばかりに増し、サタンは返事すらできず消えてなくなって行くと思います。すべてを神にゆだねれば自然と心は平安になる。また平安なこころを持っていればサタンの付け入る隙もないと思います。聖霊の輝きも、神様のいつくしみと同様、無限でしょう。無限の輝きには大いなる力があると思うこの頃です。

前述の神父さん曰く「聖霊来て下さいと祈るのは、言葉がちょっと足りない。聖霊はもうみなさんに宿っているのだから、正確には『聖霊に気づかせて下さい』と祈るべき」と言われました。私はいわゆる「聖霊刷新」というものに関わったことはありませんが、確かに洗礼の時から永遠に灯り続ける聖霊の火、これは消そうと思っても絶対消えるものではなく、聖霊に気づけば気づくほど、内なる輝きは増していくと思います。追い風の中のジョキングは楽チンです。いつもより自分が少し早くなったように感じます。聖霊も気づけば気づくほど、私たちの心を後押ししてくれて、元気を出させてくれ、平安をもたらせてくれます。

最近家内に「あなた近頃、妙に優しくなったわねえ〜」といわれました。「そうかなあ〜」とだけ答えておきました。聖霊に気づくようになってから、「気が騒いだり、怒りが怒りを呼ぶ」という気持ちが少なくなってきました。あなたにも、そしてそこのあなたにも、みな永遠の灯火が宿っています。その火に気づくだけで、元気が出てきますよ。

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