苦しみの意味

パドアのアントニオ 増島忠弘

 苦しい時って、みなさん思いませんか「神様なんとかしてくれ〜」とか「なぜわたしだけが、こんなに苦しまなければならないのか」「痛みを和らげてほしいから祈っているのに、痛みは増すばかり・・・」これらを即、「神の栄光の現れである」と言うのは易いが、受け止めにくいのは確かです。

 でもそこでちょっと待って、よく考えて。「あなたは神様に全幅の信頼をおいて祈ってますか。そのわざを疑ったことはありませんか」と言うことを深く考える必要があります。そしてすべてを神様にゆだねて祈るとき、そこには必ずなんらかの働きがあると言うことを私たちは思い出す必要があります。これは私の知識ではなく、経験です。よく目をさまして見てください。必ず働きがあります。本当に小さな働きの場合もありますが、それをお見逃しなく。

 ヨハネ9章で弟子たちはイエスに尋ねます「先生、この人が生まれつきの盲人なのは、だれが罪を犯したからですか。彼ですか、両親ですか」イエスは答えられる「それは神のわざが、この人に現れるためである」

 最初、学生時代に聖書を読んだ時は、この箇所はよくわからないまま、よく考えずに読み飛ばしていたように思います。ところが最近、聖書を通読していた時、ここで引っかかりました。「神のわざ」すなわち「神の栄光」が現れるためであるとイエスは言う。

なぜ目が見えないのが、「栄光の現れなんだろうか」と。癌で苦しんでいる人に「それは神の栄光の現れ」などとは、とても言えません。

 しかしある人が私に言いました「わたしも癌になって苦しんだけど、これ以上のどん底はないと思ったら、案外すっきりしたわよ。一番弱い時にこそ、強くなれるものよ」

 パウロはコリントU12章で「私が弱いときにこそ、私は強い」と言われました。神様は弱いものにその栄光をあらわすのです。聖書には数々の弱い人が出てきます。足なえの人、盲人、重い皮膚病の人、悪霊につかれた人、彼らはなぜそのような境遇なのでしょうか。それは私たちにはいくら考えてもわかりません。でもそのような弱さや私たちの苦しみ、すべて意味のあるものだということを信じることはできます。パウロの言葉には力強いものが沢山あります。ローマ4章3節は、弱く、苦しみやすい私たちを元気づけてくれます「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と言っています。

 ある神父さんがミサのなかでこう祈りました「病気という神秘(人知では計り知れない霊妙な秘密−広辞苑より)によって、神様の愛といつくしみを知ることができるミサにいたしましょう。・・・私たちはミサにおいて、病気や不運をまったく逆転させて、今ここを神様の栄光の現れの場にします」2千年前、イエスが最後の晩餐時パンを裂いたように、今も司祭は聖体の秘蹟であるミサの中で、パンを裂き続けています。パンの秘蹟、イエスの身体は今も生き続けているのです。この連綿と続いているミサにはそれ自体大いなる力があります。

 私もその大いなる力を信じ、苦しんでいる人、悲しんでいる人のために祈り、励ましたいと思います。パウロのように艱難から希望をイメージして。

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