心は平安ですか?
(カトリック八王子教会報「熱心」1977年2月号より)
パウラ 増島美江

 2月が来るたびに私は、2年前の、洗礼を受ける前の自分を思い出さずにはいられません。あの頃の私は、「神を信じたいが、納得して信じたい」「神をわかった上で、信じたい」と思っていたからです。
 見ないで信じる者は幸いなりと、聖書にありますが、とても私などはそうすることのできない性分です。何でも見て聞いて確かめて見ようと思う気持ちが強く、いろいろな所に出かけては、ほんのかじる程度に宗教にかかわる話を聞いていたりしました。

 長い間、信仰とは無関係の中で暮らしていた私にとっては、いざ信仰を求めるといっても、なかなか踏み切りがたいものがあります。ましてあちこちにいろいろな宗教団体がある中で、何を選んだら良いかということが、私の最大の悩みでした。そんなある日、あるきっかけで、カトリックでもなく、プロテスタントでもないのですが、キリスト教会と名のつくところに属している人と、出会いました。話を聞いているうちに、私はだんだんとその中に引き込まれていきました。その教会の聖歌のすばらしかったことや、そこの人達があまりに貧しく、しかし熱心に神を求めて生活しているのに驚かされました。何よりも、そこでの話が私を引きつけました。そうだ、私の求めているのはこれだ、と意気込んで私は夢中でした。しばらく、その教会に通っているうちに、かすかな疑問が浮かんできました。納得してその教会に通ったが、いったい私は何に納得したのかと。実際には何もわからず、教会の雰囲気に納得しただけではないかと。何かが違う。それからの毎日は、どうしたら良いのか迷う気持ちで一杯でした。そんな時に、専門学校の同級生だったシスターに引っ張っていかれ、勧められるままに、あるカトリックの修道院に行きました。お聖堂の中に入って修道院長さんが、共に祈って下さいました。

 「『あなたの心は平安ですか?』もし、平安でないならそれは主のものではありません」と院長さんから言われた時、私は初めて、『神を信じるのは理屈ではないのだ』ということを感じました。また今まで私が行っていた教会は、『違う、何かおかしい』、そこでは真の意味での心の平安は得られないと思ったのです。それに対し、カトリック教会では、私が求めていた『心の平安』を実感することができたのです。

 2月15日は、私の洗礼式でした。この日8名が、共に洗礼を受けました。ちょうど私のろうそくに、神父様が火を灯そうとした時に、ろうそくはバチバチ音をたてて、何度火を灯そうとしても火がつきませんでした。その瞬間「おまえなんか、洗礼を受ける資格がない」と言われたようでした。ろうそくは2本目を神父様が出してやっと火がつきました。私はその時思ったのです。洗礼を受ける資格があるかないかなんて、私が決めることではない、それは神様が決めてくれることだと。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送