生きているイエス

パドアのアントニオ 増島 忠弘

中学生の頃の私は教会に行くのが嫌で嫌でたまりませんでした。当時の八王子教会の西田神父さんは、私に洗礼を授けてくれた神父さんで、ミサ後私を見つけると「忠弘、元気か?」といつも声を掛けてくれる気さくな神父さんでした。そういう親しみやすい神父さんがいたにもかかわらずです。幼児洗礼の私は、物心ついた頃からずーと教会に通い、幼稚園も本町だったので、教会やこの聖堂はとても身近な存在でした。

 しかし中学生になると、私もいっちょまえに生意気になりました。「なぜ教会に行かなければならないのか?」という疑問が心の中に沸々とわき上がり、教会学校でシスターが教えてくれる公教要理も、念仏のようにしか響かず、しばらく教会に対しては嫌悪感で充ち満ちていました。楽しかった思い出と言ったら夏期学校くらいだったでしょうか。つらいことや苦しいことがあると「なぜ、神様は黙っているの?」という疑問だけが、心の中を支配していました。

高校生になって、遠藤周作の著書に興味を持つようになり、いくつかの本を読みました。その1つに「沈黙」というのがありました。1975年頃だったと思いますが、当時カトリック教会内での公式見解としての「遠藤周作評」は必ずしも良いものではない時期でした。しかし私はこの「沈黙」を読んでから、徐々に自身のなかに広がる、私の同伴者としての神そしてイエスを感じるようになりました。「神はけっして黙っているわけではない。苦しい時、悲しい時、私の傍らでいっしょに悲しんでくれ、力づけてくれる存在だ。無から有を創られる神、この神様のわざは計り知れない、完璧なものなのだ」と。

子供の頃からそれこそ沢山、聖書のことばを聞かされてはいましたが、この頃からやっと自身で自発的に聖書を読むようになってきました。読み始めると、これがなかなか興味深い。神殿内の物売り屋台をひっくりかえすイエスが出てきたりして、「にやっと」する場面もある。放蕩息子のところでは、「ああ僕も学校を停学になった時、親父に迷惑をかけたなあ」などと共感する。聖書にはまさに珠玉のことばが沢山あります。こころに響く言葉も沢山あります。

最近ふと思い立ち、新約聖書を最初から通読し始めました。やはり今まで数回読んでいる新約なので、こころに余裕をもって読むことが出来ました。

マタイ福音書の冒頭、ヨセフがマリアの懐妊を知ってうろたえる!?場面では、「そうだよなあ。だれだって疑うよ」とやはり共感します。マタイ15章のカナンの女では、「イエスさんでも、最初、人の願いを無視することがあるんだな」などとも思ったりしました。

そしてまた最近、幸田補佐司教の著書「福音をきくために」を読み、深い感銘を受けました。「私たちがイエスと出会う場は、今日の現実の生活の中なのだ。2千年前の遠い昔の物語ではないのが、福音書なのだ」と幸田師は言われています。聖書を読む時、試しにこのカナンの女を今の自身に入れ替えて、読んでみて下さい。読後に残るものはまったく変わってきます。イエスは今でも生きて私たちに語りかけてくれているのが、わかります。そこに生きたイエスを見ることが出来ます。「2人称の福音」ということも著書の中で言われていました。「『イエス(神)がわたしたちを愛してくださった』という福音があって、わたしたちは互いに愛し合おうとすることができるのだ」とも言われています。そうです。イエスは彼ら(弟子たちや信奉者だけ)を愛しているのではなく、あなたを愛しているのです。そこのあなたも、イエスは無条件に愛されているのです。福音を自分自身に語りかけてくれる言葉として読む時、そこに生きたイエスを感じることができるのです。

生きたイエスを感じながら聖書を読むと、元気がわいてきます。みなぎる力を感じます。「主は生きておられる」そうなんです。ほらあなたの傍らにもイエスさんはいますよ。そしてあなたをどんな時でも、励ましてくれています。

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